2017年4月7日金曜日

【書評?】村上春樹『騎士団長殺し』:趣向を変えて、村上春樹風に。

僕が彼について語る資格があるとは思っていない。なぜなら僕はハルキニストではなかったし、読み終えた今もそうじゃない。
だが、それが何だと言うのだ。
本当はハルキニストなんて居ないかもしれないし、全員がそうなのかも知れない。そんなこと、誰にも分からない。
ただ一つ言えるのは、僕は彼と出会い、彼を読んだ、それだけだ。
そして今、僕は彼の事について語ろうとしている。


あの日、仕事が終わった僕はふらりと本屋に立ち寄った。確か日本橋の丸善だったと思う。ひょっとすると、僕が丸善だと思っているだけで、別の本屋かもしれない。

いずれにせよ、オフィス街にあって、スーツ姿のビジネスマンが多く、洋書は決まって4階にある、そんな本屋だ。

いつも行く2階の人文科学書コーナーに向かっていくと、ちょうどエスカレーターの目の前に、彼はうず高く積み上げられていた。
その光景を僕は何度も見ていたし、普段なら気にも留めなかった。なのに、あの日に限って、僕は彼の事が気にかかり、少し視線を投げ掛けた。

すると彼は、僕に話し掛けてきた。
正確にいうと、彼は僕の鼓膜ではなくて、脳に直接語りかけてきた。

『やぁ』
「やぁ」
僕は無意識に返事をしていた。僕は生来、人からの語りかけを無視出来ない性質らしい。

『目配せだけして去っていくなんて、ひどいね』
「ちょっと、急いでいたもんでね。気を悪くしたなら謝るよ」
『いいさ。もうさすがに、ずっとこうして平積みにされているから慣れっこでね』
「いつからこうして平積みにされているんだい」
『2月22日。まぁ、もっとも、日付なんかに意味は無いがね。日付を有難がっているのなんて、人間くらいなもんさ。僕ら本には日付も、昼も夜も関係ない。ただずっと、開かれるのを待っているだけさ』
確かに、本にとっては日付なんて関係無いのだろう。僕はそれを聞いて、自分がいかに人間の尺度だけで生きていたかを思い知った。そして少し、彼に感心してしまった。

「だけど、本を性別を持つ。"僕は"って、君は男性なんだろ、違うかい」
『ああ、そうだ』
「日付というルールは持たないのに、性別というルールを持つ。おかしなものだね。性別は何かの役に立つのかい」
『リーブルさ』
「リーブル?」
『そう、フランス語で本を表す"livre"は男性名詞、だから僕らは男なんだ』
「だけど、役には立ちそうにもないね」
『"美しいルールには黙って従うこと"、それだけさ』
「ふーん、それは君に書いてある事かい?」
『ああ。それと僕の中に書かれているのは、『騎士団長殺し』という絵の事、イデアの事、メンシキという風変りで魅力的な男の事、いくつかの絵とセックスの事、そんなところさ。どうだい、試してみるかい?』

試してみるか、とはつまり買って読めという事なんだろう。
確かに、僕はこうして本屋に来ているし、本屋に来て小説を買うのは自然な事だ。少なくとも本屋に来て鯵のマリネを買ったり、日曜大工の工具を一揃えして帰るよりはよっぽど普通な事だろう。
ただ、僕はハルキニストではない。ハルキニストでない者が村上春樹の小説を買う事は、本屋で鯵のマリネを買う事よりも、普通な事なのだろうか。

「まぁ、考えておくよ」
『"床に落として割れたら、それは卵だ"』
「えっ?」
『僕に書いてある事さ。さっさと床に落としてみないと、卵だって腐るぜ』
「少し位考えてたって、腐りはしないもんさ。卵には消費期限という日付があるからね。もっとも、日付を持たない君には判らないかも知れないけれどね」

『"今が時だ"』

『"今が時だ"、これは僕に書いてある言葉の中で、最も大事な言葉の一つだ。確かに僕らは日付を持たない。でも、かと言って、僕らは、過去、未来、今が判らないわけじゃない。今は今なんだ。今を逃すと過去になる、僕を読んで少し勉強した方がいいぜ。そう、"今が時だ"』


結局、僕は彼を買って帰り、全て読み終えた。
読み易く、展開も面白くて、上・下巻合わせて1,000ページほどはあろうというのに、3日とかからなかった。

中味は彼の言う通り、『騎士団長殺し』という絵をテーマに、主人公の肖像画家とメンシキという男を中心に進んでいく物語で、イデアが姿を現したり、肖像画が完成しなかったり、忘れられないセックスが幾つかあったりした。(唯一の例外が"美しいルールには従うこと"という言葉だ。この言葉だけは随分探しても、彼の中に見つけることが出来なかった。)

"今は時だ"という言葉も存在していた。
僕が思うに、この言葉は彼の中で最も大事な言葉の一つではなく、最も大事な言葉だ。
この言葉が無ければ、きっと物語の結末は締まりのない、冗長で時間を無為に過ごさせるような物語になっていただろう。
ちょうど、茹で過ぎてアル・デンテの食感を喪ってしまったパスタの様に。賞味期限を切らして腐った卵の様に。


あの時、日本橋の丸善で僕に声掛けたのはもしかするとイデアなのかも知れない。読み終えた今となっては、そう思う。
彼の中から気まぐれに飛び出してきたのか、はたまた、彼に書いてある通りのイデアの性質上の問題なのかは分からない。
ただ、彼の中に綴られているイデアのように、僕にとっても導きを与えてくれた事を僕は信じる。

彼の話はこれで終わりだ。もう彼、もしくはイデアが僕に話しかけてくる事は無いけれど、まるで僕も彼に書かれた小説世界の一部のように思えている。

僕はハルキニストでは無かったし、読み終えた今もそうじゃない。けれども僕にはそんな面倒な事に答えを考える必要はない。なぜなら僕は小説世界の一部に僕が居たということを、信じる力が具わっているからだ。

それは彼から僕に手渡された贈り物なのだ。"恩寵のひとつのかたちとして"、そんな気がしてならない。いまでも彼が本棚からぐっすり眠っている僕に向かって話かけているような気がする。
『きみはそれを信じた方がいい』



おしまい。

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